楊貴妃は絶世の美女だったのか?
楊貴妃は唐代の玄宗皇帝の妃で、中国の四大美女、世界の三大美女の1人と言われています。
楊貴妃が庭を散歩すると、あたりの花々が彼女の美貌と芳香に気圧され、しぼんでしまったという伝承が「羞花美人」(花も恥じらう美女)といわれる由来となっています。
これは美女と呼べる話の一つ。
楊貴妃(ようきひ)は、中国の唐代に実在した有名な美女であり、玄宗皇帝の愛妃として知られています。彼女の本名は楊玉環(ようぎょくかん)で、開元25年(737年)に生まれ、天宝15年(756年)に亡くなりました。
楊貴妃はその美貌と芸術的才能で玄宗皇帝の寵愛を受け、特に音楽と舞踊に優れていたと言われています。しかし、彼女の存在は政治的にも波乱を引き起こし、最終的には安史の乱(755年-763年)に関連して悲劇的な結末を迎えました。
玄宗は楊貴妃と出会った時にはもうすでにおじいちゃんでした。
おじいさんを魅了するほどのものとは一体何だったのでしょう。
色々な説があります。独特な匂いを持っていたとか、意外とポッチャリだったとか、透き通るような白い肌だったとか…
国を滅ぼすほどの美女だったと言われてますが、一番の原因は、玄宗が楊貴妃に惚れすぎて仕事をしなかったからと言われています。
結論、楊貴妃はモテていたということではなかった。
1人の人間にどハマりしてもらえたというのが正しく、何人もの男が言い寄ってくるということではないのだとしたら、それはモテたとは言わない。
ただ、楊貴妃は1人のおじいさんを意中にさせたのは事実で、晩年、贅沢な暮らしができていた楊貴妃にとっては良かったことだと思います。